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アポロ計画捏造説#52 WikipediaのExtravehicular activity(船外活動)を訳してみました

アポロ計画捏造説#51 では、WikipediaのTransposition, docking, and extraction((司令・機械船の)転置、ドッキング、(月着陸船の)抽出)を訳してみました。

今度はWikipediaのExtravehicular activity(船外活動)を訳してみました。
間違ってるところがあったらそれはごめんさい。

このページはWikipediaのページを訳しただけの公平な内容ですが、ブログ全体はアポロ捏造説について書かれています。人によっては受け付けないと思いますので、そういう人は他のページは参照されないよう、くれぐれもご注意ください。

Extravehicular activity(船外活動)

船外活動EVA)は、地球の厚い大気を超えた所の宇宙船の外で、宇宙飛行士によって行われる活動です。この用語は最も一般的には地球を周回する宇宙船(例えば国際宇宙ステーション)の外で行われる宇宙遊泳(spacewalk)のことを言いますが、1969年から1972年にかけて行われたアポロ計画で6組のアメリカ人宇宙飛行士達が実施した月面探査(一般的には月面歩行(moonwalk)として知られる)でも使われます。アポロ計画の最後の3つのミッションでは、宇宙飛行士は地球帰還時に深宇宙のEVAを行い、宇宙船の外側からフィルムキャニスターを回収しました。宇宙飛行士は、アメリカ初のスペースステーションであるスカイラブの打ち上げ時のダメージを修理するために、1973年にもEVAを行いました。

"Stand-up" EVA (SEVA)は宇宙飛行士が宇宙船から十分に離れていないところで行われますが、宇宙という環境に適応する宇宙服に完全に依存しています。この名前は、通常宇宙遊泳を行う宇宙飛行士を撮影したり支援したりするためにオープンハッチで立つ(Stand-up)ことから、名づけられました。テザーされない船外活動は人間操縦ユニット(MMU)が使われた1984年の3つのミッションでのみ行われ、セルフレスキュー用推進装置(SAFER)が使われたアメリカの1994年のフライトテストではテザーされた船外活動となっており安全装置が身に着けられました。

ソ連/ロシア、アメリカ、それと中国がEVAを行っている。


発展の歴史
NASAのプランナーは1960年代はじめに月に有人着陸したアポロ計画のために船外活動(extravehicular activity:略してEVA)という言葉を作りました。それは宇宙飛行士は宇宙船から離れて月のサンプルを収集し科学測定機器を展開する計画があったからです。これをサポートするため、アポロのためにあった別のミッションであるジェミニ計画では、地球を周回している宇宙船外で2人の宇宙飛行士が作業する技術を発達させました。しかし、ソ連は有人宇宙飛行で一歩前を行く激しい競争相手でした。そのため、ニキータ・フルシチョフ率いるソ連共産党は、ジェミニやアポロに対抗するため、一人乗りのボストークカプセルから2~3人乗りのボスホートへの転換を指示しました。アメリカがジェミニ計画で初めての有人飛行を行う前にソ連は2つのボスホートを打ち上げることができました。

ボスホートの航空電子機器は、オーバーヒートしないようキャビンの空気で冷却することを必要としました。それ故、宇宙飛行士が宇宙遊泳するための気圧調整室を出入りするのにキャビンを加圧された状態に保ちながら行う必要がありました。対照的に、ジェミニの航空電子機器は空気による冷却を必要としなかったので、宇宙飛行士が宇宙遊泳するための気圧調整室を出入りするのにオープンハッチで問題がありませんでした。このため、アメリカとソ連の宇宙計画はEVAという用語において異なる定義で発展していきました。ソ連(現ロシア)における定義では、気圧調整室のハッチの外で宇宙飛行士が真空中にいるところで当てはまります。アメリカにおけるEVAは、宇宙飛行士の頭が宇宙船の外に出たところで当てはまります。アメリカは、それ以来でも、EVAの定義を変更してきました。


最初の宇宙遊泳(spacewalk)
初めてのEVAは、1965年3月18日にソ連の宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフによって、ボスホート2号宇宙船の外で12分間行われました。45分間分の呼吸と加圧された酸素が入った白の金属製バックパックを運びながら、レオーノフは15.35m(50.4フィート)をテザーで引っ張ることによってのみコントロールされた状態となりました。フライトの後、彼はこの作業が簡単だったと伝えたが、彼の宇宙服は真空に対する内部圧のために膨らみ、胸に取り付けたカメラのシャッターを押すことができないほど固くなっていました。

彼の宇宙遊泳の最後で、宇宙服が固くなったことはもっと深刻な状態となりました。レオーノフは1.2mの直径と2.5mの長さの気圧調整室に膨らんだ宇宙服で入らなければなりませんでした。彼は不適切なことに頭から気圧調整室に入り、横向きになって進めなくなりました。彼は宇宙服の圧力を減らさなくては戻ることもできなくなり、詰まる危険にもさらされました。このため彼は真空でもう12分間かけ、労力もかけた結果1.8度(3.2F度)温度を上げました。ソ連が次のEVAをするのに、ほぼ4年の歳月がかかりました。レオーノフが無重力で作業したことがどれだけ難しいかということをソ連はマスコミに誤った情報を流し、冷戦終結後まで直面していた問題を隠しました。


ジェミニ計画
アメリカ最初の宇宙遊泳は、1965年6月3日ジェミニ計画2回目の有人フライトのジェミニ4号で、エドワード・H・ホワイト2世によって、21分間行われました。ホワイトは宇宙船にテザーされ、酸素は25フィート(7.6m)のパイプラインで供給され、通信手段や生命測定装置もパイプラインで提供されました。彼は宇宙銃(HHMU)を使って宇宙空間で自分で動きを制御したはじめての人間でした。その制御はうまくいき、たったの20秒間だけだが十分に推進させることができました。ホワイトは、レオーノフの主張に反し、テザーが宇宙船からの距離が制限された範囲では有用であるが、周囲を移動するのに使うのは難しいことが分かりました。しかし、宇宙船のハッチにあるラッチング機構の欠陥はハッチを開いたり閉じたりするのを困難にさせ、EVAの開始を遅らせホワイトと乗組員メンバーを地球に生きて帰るのを危険にさせました。

その後3回のジェミニのフライトでEVAは計画されませんでした。次のEVAはジェミニ8号でデビッド・スコットによって実施されるよう計画されましたが、EVAを行う前に致命的な宇宙船の故障が見つかり中止しなければならなくなりました。その後の3回のジェミニのフライトの宇宙飛行士(ユージン・サーナン、マイケル・コリンズ、それとリチャード・ゴードン)はEVAを行いましたが、疲労や加熱なく宇宙船外で長時間作業できた人はいませんでした。サーナンも実施しようとしましたが、自己充足で酸素の供給もできる宇宙飛行士操縦ユニットのテストがうまく行きませんでした。

1966年11月13日に、エドウィン・バズ・オルドリンは、ジェミニ最後のフライトとなる12号で、疲れを与えることなく宇宙空間で作業するのに初めて成功しました。オルドリンは宇宙船の外で2時間6分作業し、さらに3時間24分間宇宙船のハッチで2回のstand-up EVAも行いました。オルドリンのスキューバダイビングへの関心が、無重力をシミュレートする水中EVAトレーニングの導入に影響を与えました。このトレーニングは宇宙飛行士の無駄な筋肉の浪費を避けることのできる訓練として使われるようになりました。


初のEVAクルーの移動
1969年1月16日、ソ連の宇宙飛行士アレクセイ・エリセーエフとエフゲニー・フルノフは2つの宇宙船がドッキングした後、ソユーズ5号からソユーズ4号へ移動しました。これはソ連の2度目のEVAで、ソ連が3度目のEVAをするまでにはさらに9年の歳月がかかりました。


アポロ月面でのEVA
アメリカの宇宙飛行士ニール・アームストロングとバズ・オルドリンは、アポロ11号月着陸船が着陸した後、1969年7月21日(UTC)に月面上で初めてのEVAを行いました。この初めての月面歩行は、自己充足で行動できる生命維持装置(PLSS)を使って、2時間36分間行われました。合計で15回の月面歩行が6つのアポロ乗組員の間で行われました。チャールズ・ピート・コンラッド、アラン・ビーン、アラン・シェパード、エドガー・ミッチェル、デビッド・スコット、ジェームズ・アーウィン、ジョン・ヤング、チャールズ・デューク、ユージン・サーナン、ハリソン・ジャック・シュミット博士といった人達を含んでいます。サーナンは月面に降りた最後のアポロ宇宙飛行士でした。

アポロ15号の司令船パイロットアル・ウォーデンは、月からの帰還中、1971年8月5日にEVAを行い、機械船からフィルムとデータ記録キャニスターを持ってきました。彼は司令船のハッチに立った月着陸船パイロットジェームス・アーウィンによってサポートされました。アポロ16号のケン・マッティングリーとチャールズ・デューク、それとアポロ17号のロナルド・エバンスとハリソン・シュミットによって、同じ手順が繰り返されました。


アポロ以降のEVA
宇宙船の修理を行った初めてのEVAは、チャールズ・ピート・コンラッド、ジョセフ・カーウィン、そしてポール・J・ワイツによって、1973年5月26日、6月7日、6月19日にそれぞれ行われました。彼らは、スタックされた太陽電池パネルを開放し、太陽熱シールドを展開し、スタックされた回路遮断リレーを開放することによって、打ち上げでダメージを負ったスカイラブ宇宙ステーションの機能を復旧させました。スカイラブ2号の乗組員は3回EVAを行い、合計で10回のEVAは3つのスカイラブの乗組員によって行われました。彼らは、無重力での活動は地球上の活動の約2.5倍の長さが必要だということが分かりました。なぜならたくさんの宇宙飛行士がフライトの早い時期に宇宙酔いに苦しんでいたからです。

スカイラブの後、1980年代初頭にスペースシャトル計画が登場するまで、アメリカはそれ以上のEVAを行ってきませんでした。この期間ソ連はEVAを再開しており、1977年12月20日と1982年7月30日の間、サリュート6号やサリュート7号のスペースステーションから4度のEVAが行われました。

アメリカが1983年4月71日にEVAを再開した時、宇宙飛行士は宇宙船内で自己完結タイプで生命を維持できる船外可動装置(EMU)を使い始めました。STS-6は宇宙遊泳が行われている間の初めてのスペースシャトルミッションでした。また、初めて、アメリカの宇宙飛行士がソ連と同じように宇宙船の出入り時に気圧調整室を使いました。したがって、アメリカのEVA開始時間の定義は宇宙飛行士がEMUのバッテリ電源のスイッチを入れた時に再定義されました。


記念物
最初の船外活動は、ソ連の宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフが行ったのだが、東側の郵便切手で記念されました(アレクセイ・レオーノフの記事にあるスタンプセクションを参照)。ソ連が当時ボストーク宇宙船の図面やイメージ図を出さなかったので、切手に描かれた宇宙船の描写は純粋に架空のものでした。米国郵便局は、1967年にアメリカ人がはじめて地球軌道上で宇宙空間を自由に浮遊したことを記念して、記念切手を発行しました。描かれた画像はジェミニ4号の宇宙船と宇宙飛行士エド・ホワイトが着ていた宇宙服を正確に描写されています。


称号
スペースシャトルプログラム中のNASAの宇宙遊泳はEV-1、EV-2、EV-3、それとEV-4(該当する場合、それぞれのミッションの専門家によって割り当てられました)と命名されました。


キャンプアウト手順
国際宇宙ステーションからのEVAのため、NASAは減圧症のリスクを減らすため、現在はキャンプアウト手順を採用しています。これは最初第12次長期滞在乗組員によってテストされました。キャンプアウト時、宇宙飛行士は気圧を10.2psi(70kPa)に下げるため、EVAに先立って気圧調整室で一晩寝ます。比較として通常の時のステーションの気圧は14.7psi(101kPa)となっています。低い気圧で夜を過ごすことは、体から窒素を追い出すのを助け、それにより詰まるのを防ぎます。


アポロ計画捏造説#53 につづく

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